この寿碑は嘉永元年(1848)に建てられ、大野玄鶴(大野原生れ医師、秩父志の著者)の撰文並びに書による。
算学者加藤兼安(1786~1857)は、川西地区三角に生まれ、名を治兵衛といい、天保から嘉永年間にわたり数術を広め、門弟実に1,000名を越えた。また、指導する傍ら「知慧車」と題する書を著しているが、現在確認されていない。なお生家は現存している。また町内には、大越数道軒等数名の算学者を挙げることができるが、いずれの系統も異にする。