この城跡は、大机山から北へ延びる尾根の末端にあり、横瀬川、生川、小島沢、城谷沢に囲まれた山城で、正丸峠からの秩父街道を監視し、「前山」とも「城山」とも呼ばれる。
本郭は石灰岩の採掘により破壊され、一部が残されるのみである。これより北に延びる尾根には、土橋を挟んで25×85mの二の郭が設けられている。また北西に延びる低い尾根には、「御殿跡」と呼ばれる20×140mに及ぶ郭と腰郭が残され、平場・堀・土塁が複雑に組み合わされている。
『新編武蔵風土記稿』によれば、北條氏直の家臣、渡辺監物・浅見伊賀守が在城したといい、往古には秩父別当武光、同十郎武綱、同重綱、同重弘、同重能まで五代に亘り居住したという。重能は男衾郡畠山に移り、畠山氏を名乗りその子重忠は源平合戦で活躍した武蔵武士を代表する武将である。
天正18年(1590)鉢形城落城と共に開城し、その後廃城となった。