写絵は、現在のスライド映写機のようなもので、享和年間(1801~04)に始められたといわれる。宇根の手法は、語りに説経節を取り入れたのが特徴である。
数台の桐製の風呂(映写機、すでにレンズを使用)を用いて、種板(スライド、ガラスに泥絵具で絵を描き桐板にはめ込む)の絵を和紙のスクリーンに写し出すもので、種板を動かすことにより、人物・風景に動きを出させた。
横瀬でも幕末には行われ、明治のはじめに宇根に「錦写絵連中」という組がつくられ、地元の若松佐喜太夫(高橋由三郎、俳句の宗匠)はこの写し絵に合せて、説経節で語りを行ない、種板には小栗判官などの物語が多い。地区の古老によれば、これを幻燈といっていた。また、箱書きにみられる「明治十七年(1884)一月」の墨書は秩父事件と同年に購入したことを表している。(秩父事件は同年11月)。
日清戦争(明治27~28〔1894~95〕)の戦況が写絵で伝えられるなど、その頃最盛期をみたが、活動写真の発展によって急速に衰退した。